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『本の雑誌』編集発行人の浜本茂氏より、「本の雑誌社および坪内祐三氏への質問と要望」に対する回答をメールにて頂戴いたしました。 まずは、ご多忙中にもかかわらず回答してくださったことに感謝いたします。これは嫌味でも皮肉でもなんでもなく、純粋な感謝です。「こういうことに関しては、本の雑誌社からも坪内祐三からも無視されるんだろうな」と思っていました。ありがとうございました。 ここで紹介するメールは3通あります。 [A] 浜本氏から私へのメール(8月21日16:48) [A'] メール[A]に対する私から浜本氏へのメール(8月22日12:29) [B] メール[A']に対する浜本氏から私へのメール(8月23日19:36) メール[A]および[B]について、浜本氏からブログへの掲載許可をいただいています。シグネチャーに含まれる住所などは省略します。また、メール[A]のところどころに不要な半角スペースが入っていますが、それもそのままコピー&ペーストします。 ##### [A] 浜本氏から私へのメール(8月21日16:48) ##### 件名:本の雑誌・浜本です 平山鉄太郎さま いつも本の雑誌をお読みいただき、ありがとうございます。 お返事が遅くなりましたことをお詫びいたします。夏休みで沖縄に行っておりました。申し訳ありません。 ご質問、ならびにご要望の件ですが、まずご理解いただきたいのは今回の特集「いま校正・校閲はどうなっておるのか!」は、校正をする人される人の 両側の立場から、良い面、悪い面について指摘してもらうことで校正・校閲の現状を浮き彫りにし、問題点を明確にしようという意図のもとに組んだも のであるということです。 校正・校閲は本を作るにあたって、なくてはならない過程ですが、一般の読者には、それがなにをするのか、どんな人がやっているのか、あまり知られ ていません。そのあたりと、では、校正・校閲がしっかりしてなかったら、どうなるのかという事例によって、校正・校閲の重要性を明らかにしたいと 考えたわけです。 坪内さんの原稿につきましては、すべてが体験談であると理解しています。つまり一般論ではなく、特定の雑誌(もしくは書籍)の校正者による、実際 あったケースのはずです。 1につきましては、「ウィキペディアだけしか調べない校正者」を特定しているわけで、最近の校正者がウィキペディアだけしか調べないと批判してい るのではない、ということはおわかりいただけると思います。 ですから、2も具体的に「それを認め」られず、文字使いを直されたという経験で、そういことは幾度もある、と坪内さんはこの原稿以前から言ってい ました。 3につきましては、「それを一字アケにしなければ正しくないと思っている校正者」=「彼ら」であることは明白で、最近の校正者一般を差してはいな いと理 解します。 4の問題ですが、平山さんのおっしゃるとおり、校正者が勝手に原稿を直すことは通常はありえません。しかし、特集の座談会で新潮社の井上さんが おっしゃってるように、最近の編集者は(私も含めて)怠惰なのか勉強不足なのか、校正者の指摘をそのまま著者に渡したり、著者との相談なしに校正 者の指摘のままに直してしまったりすることが少なくないようで、それは著者にしてみると校正者が直したと見えるのではないでしょうか。もちろん坪 内さんは元編集者ですので、その流れはご存じですから、ここには最近の編集者に対する強い批判が隠されていると思います。また、ここで出てくる 「人」ですが、ゲラの段階で「男」ではなく、「人」という文字が入っていたという意味です。 5以下につきましては、やはり特集の座談会でも触れらているように、実際に添削のような形で赤を入れてくる校正者はいるそうです。誌面では割愛し ましたが、偉そうな指摘をしてくる校正者も少なくないと、井上さんも関さんもおっしゃっていました。つまり、平山さんのような校正・校閲者ばかり ではなく、そうではない人が坪内さんの担当をしたことがある、ということになるかと思います。 ここでの坪内さんの本意は、椎名も書いているとおりコンピュータ(ネット)の普及で、校正の仕事が変わったということで、ネットで偉そうに~は坪 内さん特有のレトリックであり、パソコンに向かってばかりではなく、図書館に行ったり、書店、古書店を回って資料を探して、あたることも必要だと いうことを言っていると理解しています。 以上です。ただいま右手がしびれて動かず、長く文章を書くことができないため、駆け足になってしまいましたが、ご理解いただければ幸いです。 ブログのコメント欄に入力しようとしましたら、文字数が多すぎると言われましたので、メールにて失礼いたします。 -- 本の雑誌・浜本茂 #####メール[A]ここまで ##### [A'] メール[A]に対する私から浜本氏へのメール(8月22日12:29) ※ 浜本氏からのメールの引用文を斜体で示します ##### 件名:Re: 本の雑誌・浜本です 浜本茂さま 平山鉄太郎です。 あらためてメールをありがとうございます。 ブログの仕様でコメント欄の字数が少なくて申し訳ありませんでした。 「ブログのコメント欄に入力しようとし」たというのであれば、 浜本さまのメールをブログで公開してもかまいませんか? > 校正・校閲は本を作るにあたって、なくてはならない過程ですが、一般の読者に > は、それがなにをするのか、どんな人がやっているのか、あまり知られ ていま > せん。そのあたりと、では、校正・校閲がしっかりしてなかったら、どうなるの > かという事例によって、校正・校閲の重要性を明らかにしたいと 考えたわけです。 この編集方針と坪内氏の文章とに大きなズレがあるように感じてなりません。 > 坪内さんの原稿につきましては、すべてが体験談であると理解しています。つま > り一般論ではなく、特定の雑誌(もしくは書籍)の校正者による、実際 あった > ケースのはずです。 私も、実際にそのようなことがあったのだと思います。 しかし、坪内氏の文章の書き方は、 「特定の雑誌(もしくは書籍)の校正者」を批判するというよりも、 不特定の校正者を無差別に糾弾しているように受け取れます。 それは「校正者たち」「最近の(たぶん若い)、校正者」 といった言葉遣いに表れていると考えます。 この文章を読んだ人の多くは「一般論」として捉えるのではないでしょうか。 > 1につきましては、「ウィキペディアだけしか調べない校正者」を特定している > わけで、最近の校正者がウィキペディアだけしか調べないと批判してい るので > はない、ということはおわかりいただけると思います。 ちょっとわかりません。 質問にも書いたように、 〈校正者すべてが「ウィキペディアだけしか調べない」という印象を与え〉かねない、 と私は指摘しているのです。 〈一般の読者には、それがなにをするのか、どんな人がやっているのか、 あまり知られ てい〉ないので、〈校正・校閲の重要性を明らかにしたい〉 という編集方針であれば、なおさらのことです。 この文脈では、校正者はウィキペディアだけしか調べないと〈一般の読者〉に 受け取られる可能性が充分にあると考えます。 > ですから、2も具体的に「それを認め」られず、文字使いを直されたという経験 > で、そういことは幾度もある、と坪内さんはこの原稿以前から言ってい ました。 「それを認めな」かったのは、ある特定の(一人ないし数人)の校正者ですよね。 それがなぜ「最近の校正者たち」という表現になるのでしょう? > 3につきましては、「それを一字アケにしなければ正しくないと思っている校正 > 者」=「彼ら」であることは明白で、最近の校正者一般を差してはいな いと理 > 解します。 この点については私の誤読でした。申し訳ありません。 (ただしやはり、「彼ら」という言葉遣いが気になります。) > 4の問題ですが、《略》もちろん坪 内さんは元編集者 > ですので、その流れはご存じですから、ここには最近の編集者に対する強い批判 > が隠されていると思います。 隠れすぎていて、〈一般の読者〉には「最近の編集者に対する強い批判」が 伝わらないのではないでしょうか? 〈一般の読者〉は「へー、校正者って原稿を勝手に直しちゃうのか」と受け取りませんか? > 5以下につきましては、やはり特集の座談会でも触れらているように、実際に添 > 削のような形で赤を入れてくる校正者はいるそうです。誌面では割愛し ました > が、偉そうな指摘をしてくる校正者も少なくないと、井上さんも関さんもおっ > しゃっていました。つまり、平山さんのような校正・校閲者ばかり ではなく、 > そうではない人が坪内さんの担当をしたことがある、ということになるかと思い > ます。 「そうではない人が坪内さんの担当をしたことがある」という特殊な事例なわけですよね。 それなら、これは特殊な事例であるということを明示すべきだったのではないですか? 〈最近の校正者の多くに言えることだが〉と坪内氏は書いていますが、 本当に〈最近の校正者の多くに言えること〉なのでしょうか? 別のブログ(http://okinawabon.exblog.jp/20627529/)に書いたとおり、 坪内氏の校正者に対する差別意識が表れているように感じてなりません。 > ここでの坪内さんの本意は、椎名も書いているとおりコンピュータ(ネット)の > 普及で、校正の仕事が変わったということで、ネットで偉そうに~は坪 内さん > 特有のレトリックであり、 レトリックは、ふつうに説明するのでは正しく伝わりそうにない場合に用いるものだと思います。 ここではレトリックがレトリックとして機能していないばかりか、 誤った印象を与えるような気がします。 レトリックの名のもとなら 「外に行かずに内にひきこもってパソコンをいじくり、人の間違いを発見し、ついでに偉そうな文章指導をし、それでお金をもらえるのだから」 などというひどい物の言い方が許されてしまうのでしょうか? これまた、坪内氏の校正者に対する差別感情の表れに思えてなりません。 「5以下につきまして」とひとくくりにされてしまいましたが、 【6】の質問はまったく別の問題です。 「(校正者は)自らで表現することが出来ない」という坪内氏の断定について、 浜本さまはどのようにお考えなのでしょう? それから、私がブログで「最大の疑問」とした【9】についてはいかがでしょう? 【10】については、ま、「偉そう」なのでしょうね、きっと。 訊くだけ野暮でした。 長文失礼いたしました。 お忙しいなか恐縮ですが、返信お待ちしております。 よろしくお願いいたします。 平山鉄太郎 #####メール[A']ここまで ##### [B] メール[A']に対する浜本氏から私へのメール(8月23日19:36) ##### 件名:Re: 本の雑誌・浜本です 平山鉄太郎さま ご理解いただけなくて、残念です。 まず、編集方針と坪内さんの原稿にズレがあるとは私は考えていません。 特集の狙いは特集トータルで伝わればいいと考えています。 坪内さんの原稿は特集の一部であり、たとえば一のウィキペディアうんぬんも 巻頭の座談会からあわせて読んでもらえれば、そうではないということは わかってもらえると思っています。 6についてですが、 ここで坪内さんは校正者は表現することが出来ないと言っていますが、 それは当然のことだろうと私も考えます。 校正の仕事は自らを表現してはいけないという発言は座談会中にも出てきます。 表現者であることを抑えることが校正者には必要なことなんだ、と私は理解しました。 もちろん平山さんの『沖縄本礼賛』は表現者としての作品ですが、 それは校正者としての仕事ではありませんよね? 坪内さんの原稿の最後の一文も同様のことを言っていると私には思われます。 また9ですが、 もちろん校閲者が目をとおしています。 60を過ぎたベテランですが、私が非常に信頼しているプロの方です。 校正・校閲専業で30年以上、やってこられています。 雑誌一号の制作過程でたくさん厳しいチェックが入りますが、 この坪内さんの原稿に関してはほとんど赤はなかったことをお伝えしておきます。 私のメールをブログのコメント欄で公開いただくのはかまいませんが、 以下のようにぶつ切りにして並べるのはご容赦ください。 本の雑誌・浜本茂 #####メール[B]ここまで 以上の3通が、浜本氏と私との間で交わされた主なメールです。これ以外に、私から浜本氏へ「メールありがとうございました。外出中なので帰宅後にメールを拝読いたします。あらためて返信いたします」みたいなメールを送っていますが、煩雑になるので割愛しました。 浜本氏からの2通のメールを読んで、これ以上議論(メールのやりとり)をしてもしょうがないと思いました。私は今でも、坪内祐三氏の「最近の校正ゲラを目にするとヘコんでしまう」(『本の雑誌』2013年9月号所収)というコラムは、憎悪と私怨と差別感情に満ちた異常な文章だと思っていますが、浜本氏は少しもそう考えていらっしゃらない。 おまけに、「非常に信頼しているプロの」校閲者が目を通して、「ほとんど赤はなかった」とのこと。 私はブログの別の記事で、 〈問題だと思うのは、差別感情たっぷりのその坪内氏の文章を『本の雑誌』が載せてしまったことです。本の雑誌社が「坪内氏の文章の内容にはまったく問題がない」と判断しているとすれば、本の雑誌社というのはもう終わっているのかもしれません。/あるいは次のような可能性も考えられます。『本の雑誌』にとって、坪内氏の原稿は“アンタッチャブル”だったのではないか。直したくても直せない空気になっているのではないか――。/『本の雑誌』編集部は、「この文章は問題あるんじゃないか」と疑問を抱きつつも、あのセンセイはヤイノヤイノうるさいからこのままいきましょう――という具合に、触れることができぬまま本になってしまったのかもしれない。仮にそうだとしても、やはり本の雑誌社は終わってるな、と思わざるを得ません。〉 ――と書いたのですが、そういう事情ではありませんでした。積極的に掲載したということなのでしょう。 浜本氏とこれ以上議論をしてもしょうがない、というのはここに尽きます。噛み合っていない話し合いをこれ以上続けてもお互い消耗するだけです。 浜本氏からのメール[B]の中の 〈もちろん平山さんの『沖縄本礼賛』は表現者としての作品ですが、それは校正者としての仕事ではありませんよね?〉 というのも、なんだか変です。私は一人です。多重人格者でもない。もちろん校正や校閲をする際にゲラに沖縄本の魅力を書き込んだりはしませんが、「読点はここではなく、こちらに打ったほうが読みやすくなるのではないでしょうか?」と校閲者として提案する場合、それも一種の表現であると考えます。浜本氏は「校正の仕事は自らを表現してはいけないという発言は座談会中にも出てきます」と書いていますが、それこそレトリックなのではないかと思います。二つのものを見比べて同一であることを確認する「校正」なら表現の出る幕はほとんどありませんが(実はそれだって赤字を入れる際の筆跡などに個性が表れたりするのですが)、素読みの「校閲」ではどうしても校閲者の個性が多少は出ます。その多少の個性こそ表現です。 最後に、上のとは別の意味で、「『本の雑誌』はもう終わっているのではないか」という印象を抱いたことだけ言っておきます。
by macondo
| 2013-08-23 22:51
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